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キリスト教の幼稚園だったのが縁で、子供の頃は日曜学校に通い、アメリカでは長老教会(Presbyterian Church)に所属しバプテスマ(洗礼)を受けました。
また、結婚して心臓病の子供を授かってからは、密教(仏教)の不思議な力に興味を持つようになりました。
キリスト教では「イエス・キリストの愛」により人々を幸せへと導きます。
仏教、特に密教では自分自身の力で幸せ(解脱)を得る方法を修行により身につけます。
これは世間にあまり知られていない話ですが、「イエス・キリスト」そして「ゴーダマ・ブッダ」、いずれも輪廻転生という同一の観点から、 別々に独自の方法において「人々を幸せへと導く方法」を伝えたいわれています。
その裏づけとして、実は旧約聖書にも新約聖書にも輪廻転生のことが書かれていたそうです。
紀元325年、時のローマ皇帝、コンスタンチン大帝はその母へレナとともに、新約聖書
の輪廻転生に関する記述を削除した。
紀元553年にコンスタンチノープルで開催された第2回宗教会議において、この削除が
正式に認められ、輪廻転生の概念は異端であると宣言されたのであった。
しかし、ゴーダマ・ブッダの「人々を幸せへと導く方法/解脱」は一部の比丘たちにしか、その真髄は伝えられませんでした。 それほどに、ブッダの説いたこの方法は難しく、正しい指導の元でしか達成できないものだったのです。
その「解脱方法」はインドから中国へ渡り、そして日本へ密教という形で入ってきました。 しかし、この「解脱方法」は一部の出家憎にしか伝えられませんでした。 しかも、中国を経由して入ってきたために途中で様々な情報が加わり、また改変されて一部は創作経典として、 ブッダ直伝ではなく、弟子達の想像や主観も織り交ぜられて入ってきました。
その「解脱方法/修行方法」については、両界曼荼羅にも描かれていますが、その詳細については確かなものではなかったのです。 しかし、その直伝の「解脱方法/修行方法」がインド隣国のスリランカやチベットなどに今も残されていると聞いていました。 そして、私はインド滞在中にクンダリーニ・ヨーガという形で、それらに触れることになったのです。
そして今日、 スリランカの Theravada Buddhist たちにより、その方法は「ヴィパッサナー瞑想」という形で全世界に広められています。
健幸塾「風見どり」では、幸せを得る方法として自己啓発的な 「ザ・シークレット」、 「セドナ・メソッド 」、 「ホ・オポノポノ」をご紹介していますが、 それらの基礎となっている基幹部分は全て共通して、宇宙の法則、そしてゴーダマ・ブッダの「人々を幸せへと導く方法/解脱」へと行き着きます。
また、インド伝承医学である「アユールヴェーダ」や米国の「エドガー・ケイシー療法」についても同様のことが言えます。
瞑想により「無常」を知り、「慈しみの心」を養い、「心の本質」を知る。そして「悟り」を得て、それらを実践していきます。
このことに気がついた西洋の先達たちは、仏教に馴染みのないそれぞれの文化において、そこに似合った方法で「人々を幸せへと導く方法」を説いていったのです。
しかし、これらの自己啓発的なツールは、とてもシンプルなため、ブームとなり持てはやされるようになります。 そうなると、お金儲けの材料となり、各地で高額な参加費用で講演やセミナーが開かれ、やがて廃れていきます。
なぜ、廃れてしまうのでしょう?
それは、お金儲けの材料となることで、本質的な事が二の次となり、ご利益的な事柄がクローズアップされ、 そして短時間でご利益が得られないと、そこから人々は離れてしまうからです。
「継続は力なり!」という言葉がありますが、その通り続けることで、その本質がわかってくるのですが、、、!
このような自己啓発的なツールと比較し、ゴーダマ・ブッダの「人々を幸せへと導く方法/解脱」は、何千年もの昔から変わることなく受け継がれてきました。
健幸塾「風見どり」の各ページに目を通していくと、ある共通点(本質)が浮かび上がってまいります。 それは、人に教えられて得るものではなく、自分で感じ取るものなのですが、 このページの瞑想法では、その共通点(本質)を確実に感じ取ることができるでしょう!
ぜひ、健幸塾「風見どり」で、あなたに合った「幸せを得る方法」を見つけて出してください!
(合掌) チャーリー横山
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はじめに
ヴィパッサナー(VIPASSANA)は、お釈迦さまが、 我々に確実に悟りを体験できるように教えられた実践方法(修習、瞑想)です。2500年もの歴史を通じて、テーラワーダ仏教(上座仏教)の長老たちによって守られ、今日まで連綿と伝えられてきた、 誰にでも簡単に実践できる、とても合理的な「こころを育てる」方法です。みるみるうちに心が成長していく過程を、ぜひご自分で試してみてください。
本来の『仏教』とは、自ら覚醒するための実践法なのです。
※ヴィパッサナー冥想の実践に入る前に、まず心を落ち着かせるために「慈悲の冥想」を行うと良いでしょう。
また、この「慈悲の冥想」を行うだけでも、大変心が成長してまいります。
このヴィパッサナー冥想、入門者には意外と難しく、集中力が持続できません。
そんな方には「太極拳」を利用したヴィパッサナー冥想がお勧めです。
ありのままに観る
ヴィパッサナーの実践法は、とてもシンプルです。 ただ、今の自分に気づく。そこに、深遠な世界が広がってくるのです。
パーリ語で vi(ヴィ)とは「ありのままに・明瞭に・客観的に」、passana(パッサナー)とは「観察する・観る・心の目で見る」という意味です。 「今この瞬間の自分自身をよく観る」ということです。 瞬間瞬間に起こる、思い込みやしがらみを理解できる vipassana(ヴィパッサナー)は、「気づきの瞑想」や「洞察の冥想」ともいえるでしょう。
ヴィパッサナーは、一つの型にはまった瞑想法ではありません。特別な世界に到達したり、人と違う超越的な力を得るためのものではありません。また、なにかを信ずるという宗教でもなく、イデオロギーや主義でもありません。 あらゆるとらわれや執着から生まれる悩み苦しみを離れ、苦を超える方法なのです。普通の生き方と変わった行法ではなく、日常の生き方そのものに智慧の光を照らしてみることです。
ヴィパッサナーは“今という瞬間に完全に注意を集中する”実践です。 何をしていても、“今・ここの自分に気づいていく”こと。それが、ヴィパサナーです。 自分を客観的に“よく観る”のです。
今ここの一つ一つの瞬間に意識を向ける。心地よいことでも不快なことでも、ありのままの体験を価値判断しないで、そのまま観るのです。葛藤をシャットアウトしたり、コントロールしようとして新たな問題を作るのではなく、ただ気づくだけ。それが観るということです。 それが苦悩を超える道です。
安らぎが訪れ、心と体を癒すことになるのです。波立っている水面が穏やかになってすべてを映し出すように、深い智慧と洞察力が生まれてくるのです。
ヴィパッサナーは自分の内部から、自分の一つ一つの瞬間の体験から、学びとるものです。 未来に理想を描いて、そこに到達するために努力するのではありません。 確実な“今・ここの私”を徹底的に掘り下げようというのが、ヴィパッサナーの実践です。
頭の中のガラクタを片づける
私たちの日常生活のあり方は、すぐ評価を下したり、防御や攻撃をしたり、落ち込んだり舞い上がったり、無意識のうちに自動的に反応しています。 私たちは、その自動反応に莫大なエネルギーを使い、心はあちこちさ迷って思考や幻想の中を漂っています。
ヴィパッサナーを実践するためには、ひとまず頭の中のガラクタを整理しましょう。きれいな部屋にしたければ、まずガラクタを整理することから始めなければなりません。
頭の中のガラクタとは、 「私には能力がない」「神秘体験をしたい」「病気を治したい」「こうなりたい、ああなりたい」というようなものです。 そういったガラクタで頭が満杯である限り、何も得られず、成長することもできません。
希望や期待や願望などのガラクタはひとまず置いて、自由で柔軟な心、子供の無邪気さに戻って始めることが大切です。
自分の世界に徹底的に戻る
ヴィパッサナーはいつでもどこでも実践できます。 今ここの動作、行動、感情に気づいているかどうか、それだけのことです。
自分を徹底的に観ることです。自分が自分自身の主宰者でいられるのは、このヴィパッサナーを実践している時だけとも言えるでしょう。 それ以外は、自動的な反応で行動したり、他人や外部から操られているようなものです。
私たちは、ちょっとしたことで感動したり、悲しくなったり、暗くなったりしてしまいますが、このまだ育っていない子供のような心は成長できるはずです。
ヴィパッサナーをしていると、人からなんと言われようと、誉められようとけなされようと、心の中に感情の波は起こらない。そういう落ち着いた心が出てきます。 そしてヴィパッサナーがさらに進んでいきます。 こうして心が成長していくのです。
ヴィパッサナー実践の三原則
まずヴィパッサナー冥想実践法の三原則を覚えておきましょう。
1. スローモーション。
2. 実況生中継。
3. 感覚の変化を感じ取る。
一つ目は、スローモーション。
体をふつうのスピードで動かすのではなく、できるだけゆっくりスローな動きで行うこと。
二つ目は実況生中継。
今行っていることを、頭の中で簡単な言葉で確認すること。それを隙間なく、切れ目なくするのです。これを実行すると、雑念が消え、瞬時に集中力が生まれます。
三つ目は、感覚の変化を感じ取ること。
手を上げたり、歩いたり、座ったりするたびに、からだの感覚が変わります。考えるときも激しく感情が変わっていくのです。これらの変化を何も解釈せず、感じることです。
この三原則に基づいて行動することが、ヴィパッサナー実践になります。
「そんな簡単なことでよいのだろうか」と、思うかも知れません。 それも妄想です。そのような妄想に明け暮れるのではなくて、やってみることです。 さまざまな妄想に迷うことなく、今ここに意識を保ち続けていれば、いつの間にか驚くほど、心が成長していきます。 たったそれだけで、心とからだの関係が理解でき、落ち着いた心境に至ることができます。
何を気づいてもかまわないのですが、楽に実践できるように 『歩くこと』『立つこと』『座ること』 という簡単な動作で実践をします。 そのうち日常生活の中でも気づきが実践できるようになります。
歩くヴィパッサナー実践法
歩く冥想は、30分〜1時間くらい時間を決めて集中的に実践する方法もありますし、日常生活の中で歩く度に実践するという方法もあります。どちらでも、自分の生活にあわせて実践すればよいのです。日常生活の中で歩くときは、 「左足、右足、左足、右足…」と足の動きを感じて頭の中で言葉で確認しながらふつうに歩きます。
集中的に歩く冥想を実践するときは、まず背筋を伸ばして、手を前か後ろで組みます。左足から歩くならば、左足に神経を集中させ、「左足」とこころの中で言葉で確認し、 同じく「あげます」と実況しながら左足を上げ、 「運びます」と実況しながら左足を運び、 「おろします」と実況しながら左足を降ろす。 次に、右足に神経を集中させて「右足」と確認し、 「あげます」と実況しながら右足を上げ、「運びます」と実況しながら右足を運び、 「おろします」と実況しながら右足を降ろす。このように実況中継を絶やすことなく歩くことを続けるのです。
歩く冥想実践は、わざわざゆっくりと歩く必要はありません。足の動きを感じやすい、実況しやすいスピードで、自然に歩いてください。
ポイントは歩く際に、足の感覚を丁寧に感じることです。 足をあげると同時に、あげるという動きを感じてみる。 足を運ぶときは、運ぶという動きを感じてみる。 足をおろすときは、おろすという動きを感じてみる。
はじめはうまくいかないかもしれませんが、とにかくチャレンジして下さい。 どうしてもできないと思うときも「左足、上げます、運びます、降ろします、右足、上げます、運びます、降ろします…」と隙間なく実況中継することだけでもつづけてみて下さい。 徐々にできるようになります。
また、このシンプルさに飽きてきてつまらなくなって、頭はどこかへ逃げたくなるかもしれません。気にせずにつづけてみて下さい。
歩くということは無意味なことではなくて、人生の大事な一部ですから、シンプルだと軽視するわけにはいきません。 私たちはいろいろ複雑なことをしていると思っていますが、生きる上で人々が行っているすべての行為を分析してみると、 すべてがあきれるほどシンプルであることがわかります。それこそが、複雑な人生に対する答なのです。
初心者には歩く冥想が入りやすいでしょう。 ブッダの時代から、悟りを開いた人は、坐る冥想より長い時間歩く実践をすることによって成長しました。 歩く冥想は、眠くならないし、早く落ち着くし、体と心の調和が速やかに実現できる実践方法なのです。
立つヴィパッサナー実践法
いま座っているということにして、「立つ」実践の方法を説明してみましょう。 できるだけゆっくりと、手の動き、からだの動きを実況しながら、立って下さい。 立ち上がったら、「背中を伸ばします」と背筋を伸ばして下さい。 「手を動かします、手を組みます」などと実況しながら両手を前か後ろに軽く結んで下さい。 目は半眼にして下さい。意識を足の裏にしっかりと向けて下さい。
何も考えず、単純に、「立ってます、感じてます、立ってます、感じてます…」と足の裏に集中して、実況中継をつづけて下さい。 立つ冥想実践は10分間くらいで十分です。
坐るヴィパッサナー実践法
座布団か椅子を用意します。
「坐ります」「しゃがみます」「手を動かします」などと動作を実況中継しながら、楽な形で座ります。 足を組む場合は「足を組みます」と足を組み、「背筋を伸ばします」と、実況中継しながら背中をまっすぐにします。 「目を閉じます」と目を閉じます。 三回くらい「吸います、吐きます」と実況しながら深呼吸します。
次に「待ちます」と、自分の中に生じてくるものを待ちます。
それから、「膨らみ」「縮み」「痛み」「しびれ」など、気になるからだの感覚を、実況し続けます。
「雑念」「妄想」「眠気」「苛立ち」などの心の感覚も、実況します。どれかひとつのことに集中する必要はありません。 ありのままの状態を実況中継します。
坐る冥想は、自分のペースで、15分〜45分間くらいすればいいでしょう。無理にがんばって長く座る必要はありません。
冥想を終了するときは、ひとつひとつの動作を丁寧に実況しながら「終わります」としっかり確認してから終えて下さい。
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慈悲の冥想は仏教を実践する上で、土台となる心を育てます。
ヴィパッサナー冥想の実践に入る前に、まず心を落ち着かせるために「慈悲の冥想」を行います。 基本的に「慈悲の念」「慈しみの心」があると、実践の土台として大変役立つのです。
人間というものは、自分は個別の「存在」だと思っています。 「私は、私です」 と思っているのです。「私は...」と思った瞬間で、私たちはこの世界の全体的 な生命のエネルギーから自分を別なものだと、ある個体的な存在だと思ってしまい自分と他とを区別します。
区別することによって、自分がとても小さなものになってしまい、色々な問題が生じてきます。人間が人生で出遭う様々な苦悩は、この「私」というその個体があるんだ……と思ったところから生まれて来るのです。
簡単に言えば、この「私」という実感さえ無ければ、問題は何も無いのです。しかし、これはなかなか消えるものではないのです。 誰かが体に触ったら「私に触りました」と感じるし、冷たい空気が体に触れたら「私は寒い」というように、簡単に「私」という主語は出て来ますが、しかしそのことは大問題なのです。 「私」が居るから「他人」が居て、だから人間関係が悪くなったりする。「私」が居るから、他の人間と競争するためにいろんな才能を身につけなくてはならなくなる。例えばこのように、問題が生じて来ます。
そこで、何故「慈しみの心」が必要かというと、いくら「私が私が…」と言っていても実際には、ここに私が生きていられるのは他の生命が有るからなのです。 私達が生きるために必要な栄養素にしても、他の生命を経由して体内に採り入れ るものが大部分ですし、例えば鉄分が必要だといっても、鉄の塊をガリガリとかじるわけにはいかないのです。
また、私達の体内には無数の微生物が住んでいて、なにかしら有用な活動をしています。それらの生命に「これは私の体ですから、出て行って下さい」と言って追い出してしまったら、「私」も死んでしまいます。 ひとつの体の中にも、多くの生命体が入り込みお互い助け合って共存しているの です。
ですから、「私」を発見する以前に、生命に対する「やさしい心」というのは、 大変必要な条件になります。
どんな宗教でも共通して説いているのは、この「やさしさ」ということで、生命はお互いに助け合って生きている……ということは重要なポイントなのです。 「慈悲の心」を育て上げられれば、自分は諸々の宗教に共通している真髄を実践しているのだと理解しても過言にはなりません。
次に実践ですが、ここでは「全ての行動は心に基づく」という法則を用いています。人間が行動する前には、必ず先立って「こう行動しよう」という心の働きがあるのです。
「慈しみ」を実践するのに最も簡単で早い方法は、心そのものを「慈しみの心」にしてしまうことです。
道徳や厳しい戒律を守ったり、困っている人を助けたりといった行動をしていても、もしも心が清らかでなかったら、それほど意味が無いし、後で疲れたり、嫌になる可能性さえあります。 でも心が「慈悲の心」になってさえいれば、そこから先の行動は、どんなことでも素晴らしいものに変わるのです。
ですから、幸福になるためには、人生で成功するためには、平和で無事で争いが 無く、堂々と美しく生きてゆくためには、ただ「やさしい心」さえ作ればいいのです。
それには、人を見たら自分とみる、相手を「他人」と見ずに「自分」としてプロジェクション(投影)してみることです。それが出来た瞬間に、問題はハッキリ明確に見えてきます。 例えば、何か問題にぶつかっている人を励ましたい場合は、もし自分が相手の立場だったら、 どのようにして貰ったら元気が出て、問題を解決できる力が湧いてくるだろうか……というように、相手の立場を自己に投影してみるのです。
それを上手くやるためには、やはり「慈悲」というものを育てなければなりません。 「慈悲の心」を育てるためには、自分の心にず〜っと反復して言い聞かせてやればよいのです。 そうして「念じる」ことは、大変効果的なトレーニングになります。
この「慈悲の冥想」は、「ヴィパッサナー」とは違い、伝統的なごく普通の冥想法ですから、ある意味では入っていきやすい実践だとも言えます。 しかし、この慈悲を念じる実践は、決してヴィパッサナーの準備段階ということだけにとどまらず、全ての仏道修行において基礎になるもので、日常的にいつも念じているのが望ましいのです。
まず最初に、自分自身に対して慈悲の心を作ります。 どんな生命にとっても、一番大事で最優先されるのは自分であるというのは、ごく当たり前のことですから、まずそこのところは正直な心で「私は幸せでありますように」と念じます。 「幸せ」とはなんですか?と考える必要はありません。 幸せとは少なくとも良いことでしょう……というふうに大雑把に理解しておけばいいのです。
次に「私の悩み苦しみ が無くなりますように」 「私の願いごとがかなえられますように」、 そして私達は一応仏教の実践をしていますから「私に悟りの光が現れますように」と念じます。 もし「悟り」という言葉が解かりにくければ「知恵が現れますように」でも構いません。
二番目には、先程出てきましたプロジェクションということでもありますが、自分の「親しい人々」、 一番幸福になって欲しいと感じる人々がいますから、その人達(自分の子供や両親、友人、身近な人々など)のことを同様に念じます。
そして三番目に、やはり全ての生命が幸福であったほうが一番有り難いことだと 思って、それから努力して「生きとし生けるもの」の幸福を念じます。
この3段階で、あらかじめ決めておいた言葉を唱えて「念じ」ていきます。 言葉は、静かに心にしみこんでいくように、丁寧に丹念に念じます。 (何人かで一緒に実践するときは声を出して唱えることもありますが、一人で実践するときは、声を出さなくてかまいません)姿勢は背筋と頭をまっすぐにして、目を閉じて下さい。
『慈悲の冥想』
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)
私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように(3回)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
これまでがワンセットですが、さらに続きがあります。 次は、自分が嫌いな人、苦手な人のことを思い浮かべます。 嫌いな人のいない人はまずいないはずですから、それらの人を心に思い浮かべて、それらの人のために「慈悲の冥想」を実践します。 さらに続けて、自分のことを嫌っていると思われる人々のことを思い浮かべて、それらの人々にも「慈悲の冥想」を実践します。
もし、この時イヤな気分になるようでしたら、まだまだ心が成長していないということです!
私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように
私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように
そして最後にもう一度、
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
皆さん、どうか毎日、日常の生活の中で時間を見つけては、この「生きとし生けるものは幸せでありますように」という言葉を、絶えず持続して念じてください。 そうすれば、必ず短い間に自分の心が変わっていくことに気づきます。 特にこれは持続して実践するということがいちばん大切なことです。
持続していけば、やがてさまざまな禅定を作っていくことも可能になっていくのです。
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このヴィパッサナー冥想を広めている「 Theravada Church 」の日本語サイトの「根本仏教講義」というページがあります。 ゴーダマ・ブッダの智慧が詰まったこのページは、仏教を学ぶ上でとても参考になりますので、抜粋してご紹介いたします。
Charlie Yokoyama
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