2006年 腎臓ガン発症・膵臓転移
演題
『たくさんの気づきにありがとう!』
金沢美子さんとお嬢さんの武井尚美さん
私、大勢の方の前でお話しするのは慣れておりませんので、上手くできるかどうかわかりませんが、宜しくお願いします。
2005年の10月から咳と微熱が2ヶ月近く続き内科に通院していたのですが、なかなか治りませんでした。そこで呼吸器科の医院を受診し採血してもらったところ、総合病院で精密検査を受けるよう勧められました。地元の市立病院に行き調べてもらったのですが、とくに悪いところは見つからない。でも、相変わらず具合はよくないので、今度はエコー検査をしてもらったところ、右の腎臓になにか大きなものがあるのがわかり、泌尿器科に移りました。
検査の画像を見ると、ジャガイモかサツマイモのような形がくっきり映っていました。主治医の説明を私は待っていたのですが、なにもおっしゃろうとしません。間が悪くなって、私のほうから「先生、ひょっとしてこれはガンですか?」と訊くと、「そうです、ガンです」とおっしゃいました。「先生、ガンって、こんなに大きくなるんですか?」私は続けて訊ねました。結局、長引く咳は、この腎臓に発生したガンが肺に触れるほど大きくなっていたのが原因でした。
詳しく調べた結果、ガンは右の腎臓だけでなく、左の腎臓にも飛び火していました。市立病院では左右両方の腎臓を手術するのは難しいということで大学病院を紹介されましたが、手術まで3ヶ月待たなければなりません。3ヶ月もほっておけないので、大学病院から専門医が派遣され、市立病院で3月7日に手術しました。手術でガンを取り除くと咳はピタッと止まりました。術後の経過は良く、3週間で退院の運びとなりました。
5月になって、1ヶ月検診の結果を訊きに病院を訪ねた私を待っていたのは、膵臓にガンが転移しているという診断でした。たった1ヶ月ですよ。ほんと、声も出ないくらいショックでしたね。8mmほどの大きさのガンが5つ。家族にどう話したらいいやら・・・。腎臓ガンの手術が終わってやれやれといったところでしょ。すごく心配かけましたからね・・・。今でもその時、家族にどう話したのか覚えていないくらいです。
転移した膵臓ガンは手術も抗ガン剤も放射線もできません、と主治医は言います。まあ、原発が腎臓なのでインターフェロン治療を続けてみようという治療方針が提示されました。「要するに、もう打つ手がないんだな」私はそう感じ、不安の渦にのみ込まれそうでした。
そんな時、長女が一冊の本を持ってきてくれたのです。安保徹先生の『ガンは自分で治せる』という本です。「病院でなくともガンは治せる可能性がある」「自分でできるガン改善法がたくさんある」 気持ちが救われました。まさに人生が大きく変わる本との出会いでした。そしてできそうなことから実践を始めたのです。玄米や旬の野菜を食べること、ニンジンジュースも作って飲み、キノコや海藻を多く摂りました。そして家族みんなでいろいろな本を読み、情報交換をし、良さそうと思うことはなんでもやりました。その中から、自分の感覚を物差しにして体に合っているなと思うものは3年間継続して取り組むようにしたんです。
翌6月、がんセンターにセカンドオピニオンを伺いに行った際の検査で、膵臓のガンは8mm→24mm、5つ→7つと進んでいました。それでも病院ではどうすることもできない。結果的には、抗ガン剤も放射線治療もしなかったのが幸いしたと思うのですが、やはりその時は不安でした。
この時期に、地元のガン患者会である「いずみの会」を知り、早速入会しました。そこには、私と同じようにガンに罹り、克服している人たちがいたのです。会長の中山さんとガン体験者を交えた面談、ビワ温灸の講習会や尿療法の講演に出席しました。いろいろアドバイスもいただきながら、自分でガンを治すという意欲が湧いてきました。
とくに体温を上げることを改善のポイントに置いて、自分でできることに日々取り組みました。散歩、足湯、就寝時はいくつか湯たんぽを使ったり・・・。とにかく体温を上げればガンはそれ以上進行しないと信じ込んでやりました。自分の体と対話しながら、続けました。
病院では、このままのペースでガンが悪くなっていくと膵臓自体がもたないので、8月になったら全部摘出しましょうと言われました。私はその方針に納得がいきません。膵臓転移が見つかった5月には、手術はできませんと言っていた。なのに今になって全部取っちゃいましょうって、おかしいじゃないですか。手術のリスクに加え、膵臓が無くなってしまったら、ずっと糖尿病患者として生きていかなくちゃならない・・・。そんなのイヤだと思ったんです。
病院のほうは手術を念頭に入れているので、7月末に検査を組みました。すると、その検査の結果でガンの進行が止まっているのがわかりました。「これは今までやってきたことの成果がでてきたんだ」そう思い、主治医に手術はギリギリまで待ってほしいと頼みました。そして、これまでに増して家族一丸で自助療法に取り組んだのです。私の養生食にお婿さんまで付き合ってくれて・・・ほんと励みになりました。家族一緒によく笑いました。また末期ガンから生還した知人に紹介された外治法(体の外から手当てする)の療法家との出会いも、治癒を後押ししてくれました。
振り返ってみますと、病院では転移した膵臓ガンについては全摘手術しか治療法がなかった。それを拒否した私は、もう病院を頼れない状況になったわけです。その一見暗闇のような状況が、自分でなんとかしようという自立心を芽生えさせてくれたのです。自分の心に正直になる。素直になる。私はガンになるまで、自分の思ったことの60%くらいしか言えないタイプの人間でした。言いたいことも心の中に押し込めてしまう。そんな生き方をしてきたんですが、ガンになったお陰で心を開放できるようになり、楽に生きられるようになったのです。そして思ったことは行動に移し、どんなことにも感謝できるようになりました。自分の直感を信じる。あきらめない。自分の人生を生きる。そういうことを学びました。そして、奇跡は待つのでなく自分で起こすものだと・・・。
※ここからは、お嬢さんの武井尚美さん(講演会の主催者のお一人でもあります)が加わって講演が続きます。
武井さん:
母と7歳の息子の3人で来月12月のホノルルマラソンに参加します。(杉浦貴之さんが主催する「がんサバイバー ホノルルマラソンツアー」)お母さん、ホノルルマラソン参加を決めた動機は?
金沢さん:
長年悪かった脚を直す良い機会だと思って参加を決めました。私は飲食店を営んでいたのですが、脚を悪くし、お医者さんに「このままでは歩けなくなるよ」と言われ、お店を閉めた矢先にガンが見つかったのです。私と孫(武井さんの7歳になる息子さん)は10kmを歩き、娘(武井さん)はフルマラソンに挑戦します。
武井さん:
膵臓転移を聞かされた時、まるで真っ暗なトンネルに入り込み、どこをどう進んめばいいか見当もつかない状態でした。1年くらいは不安でたまりませんでしたが、母と家族一緒に食事や療法を続けたら自分たちの体調も良くなったので、母はこれで治ると信じて2年、3年と月日が重なりました。体だけでなく考え方も変化し、心の大切さを強く感じています。ホノルルマラソンを一つの区切りとし、母のガン卒業記念にしたいと思っています。
とにかく3年間、毎日の日課(養生)を続けるには、母一人でなく家族の団結力があったからこそです。みんなで役割分担し、チーム力でここまでこれたと思います。
金沢さん:
ほんとに家族の愛に包まれて・・・感謝しています。
ありがとうございました。
2004年 胃ガン・悪性リンパ腫発症、肺転移・前立腺転移
演題
『家族と共に乗り越えたこと』
※体験者である山下さんと奥さん、お嬢さんの三人で登壇。
主に奥さんの弘子さんが体験談を語られました。というのも、手術から肺転移が判明するまでの約 1ヶ月半の出来事を本人はほとんど記憶していないそうです。以前、仕事中に重機の下敷きになって45日間意識不明の際、お嬢さんはお父さんの爪の異変に気付きました。担当医は「生命を維持するためにエネルギーを集中させているので、爪や髪の毛などの生長は停止させるのだろう」と言いました。おそらく、ガンによる生命の危機を乗り越えるため、山下さんの体は緊急処置としてエネルギー配分を調整した。そのひとつが記憶機能の低下だと推測されます。
主人は昭和62年に胃ガンで胃を全部摘出しました。4〜5年かかって仕事に復帰し、経営者として会社を引っ張っていました。平成4年に重機の下敷きになる大事故で45日間意識不明。12000cc輸血しました。退院の際には一生車椅子生活だろうと言われましたが、自分で工夫したリハビリによって、いまはご覧のように自力で歩行しています。
平成15年秋に、体調がおもわしくなくなりました。細身なのにやけに下腹部がぷっくり膨らんでいる。思うように便が出ない。腸閉塞を調べたりしましたが、よくわからず入退院を繰り返していました。結局、平成16年6月になって小腸の良性腫瘍ということで開腹して一部を切除したのですが、手術中に悪性であることが判明したのです。
主治医は大学病院の血液内科への転院を勧めました。そこでは、3ヶ月徹底的に抗ガン剤治療をしましょうと診断されました。私たちは、こんな体力で抗ガン剤はきついだろうと考え抗ガン剤治療を断り、セカンドオピニオンを求め別の病院を受診したところ肺にも転移していることがわかりました。やはり今ならできると抗ガン剤治療を打診されましたが、入院も抗ガン剤治療もしないという本人の固い信念を通し、子供たちにもそのことを伝えました。
8月になると体重が激減し、肺に水が溜まりだしました。水はあっという間に肺いっぱいになり、病院からは何度も入院を勧められました。もうこの頃には抗ガン剤はできない状況です。8月10日には主治医から、この病状では一ヶ月もたない、と言われました。医師が病状説明する際は、「家族だけで聞くな、必ず俺も同席する」と本人が言い張っていたので、予め主治医に余命だけは告げないよう頼みました。実は8月29日に息子の結婚式が予定されていたのです。
病院からは、そんな状態の人を家でケアするのは難しいからとホスピスを勧められました。左肺いっぱいの水はやがて右肺にも及び、海で溺れるような苦しい死に方をする。酸素吸入も必要になってくるから自宅では無理だと。でも、頑として自宅に戻ることを変えませんでした。息子や娘には、もう病院では治療ができないから、ガンに良さそうなこと何でもいいから調べて教えてと指示しました。
8月10日・・・この日が転機となったのですが・・・息子の情報で豊田市のある治療院に行ってみることにしました。この時、主人は体重35Kg。娘と私が両脇を抱え、車に乗せて連れて行きました。治療院のM先生の言葉は納得いくもので、その後、私たち家族も事あるごとに心を助けて頂きました。一般的にいうところの民間療法ですが、とにかく主人は体温が低かったので、体温を上げ血行を良くすることに努めました。自宅から豊田まで車で1時間ですが、毎日通いました。そして間に合わないかもしれないと言われていた息子の結婚式には、車椅子で出席できたのです。
その療法を始めてから体に変化が見られたのは、5日経った8月15日からです。午後3時頃から発熱が始まります。 39.8度の高熱が約1ヶ月続きました。冬用の下着を着ていましたが汗でグショグショになるので、毎晩5〜6回着替えました。朝になると熱は下がり、玄米と生野菜という今でも続いている養生食を口にする毎日でした。大酒呑みでかつ大の甘党だった主人は、食べ物に関しては白砂糖は厳禁という食事指導のため甘い物は止めましたが、先生にも内緒で毎日おはぎ一個だけは食べていました。あれもこれもダメではストレスになってしまうと思い、それだけは許可しました。(笑)
いろいろな方にご指導頂けたのは本当に幸運でした。セカンドオピニオンで受診した病院の先生は、検査だけで無治療のお願いを快く聞きいれてもらえました。復活のきっかけとなったM先生、手当て日記の付け方をご指導頂いた心療内科の先生、気が動いているから可能性はあると励まして下さった鍼灸師の先生・・・本当に恵まれていました。感謝しております。
同じ年の10月30日、主人は「治った」と感じたと、私に告げました。「表と裏がコロっとひっくり返ったように治った気がする」と言うのです。確かに日に日によくなる、というよりは突然復活したように私も思ったものです。11月になって車を買うと言いだし、自分で運転し豊田まで通うようになりました。
この頃から主人は精神的にも落ち着いてきました。イライラすることもなくなり、気持が大らかになりました。今は、穏やかな気持ちで、面白おかしく生きていくのがいちばんじゃないかなと思っています。あと少し娘が補足させて頂きます。ありがとうございました。
※お嬢さんの補足:
父のガンの経緯は母が話してくれましたので、私は、余命1ヶ月の宣告を受けた時、どんなことに気をつけていたかお話したいと思います。
やはり余命宣告された時は、多くの方と同じようにパニックになり、落ち込み、悲しみました。でも、そんな状況でも、誰かが《運の良いこと、ツイてると思えること》を見つけるべきだと思ったんです。
当時、私の子供は小学1年生と保育園児でした。可愛い盛りの孫と遊べるのに、おじいちゃん死んじゃう、可哀そう、と思いました。いやいや、待てよ。ちょうど夏休み。子供たちを連れて実家に帰れば、最後の1ヶ月を一緒に過ごすことができる。ラッキーだ!と考え直しました。
次にツイてると思ったのは、余命1ヶ月で抗ガン剤も放射線もできなかったこと。抗ガン剤や放射線が体にキツイこと、ダメージを与えることを情報として知っていました。でも、多くの方は治療を受けられます。なぜか? 選ばなくちゃならないからです。お医者さんが勧める抗ガン剤治療を断るのはものすごく勇気とエネルギーが要ります。でも父の場合は、余命1ヶ月の時点でできないと言われた。もう病院の治療を悩むこともなく、他の方法に集中できた。ラッキーです。
また当時の父の体重は35Kgくらいと軽かったので、母と私の二人でどこにでも連れて行くことができました。イヤだと言っても、ごまかしながら簡単に車に乗せて連れ出すことができたのです。これもツイているにしました。(笑)
家族の中にポジティブな見方ができる人が一人でもいるといないでは、大きくちがうと思います。私はそういう役目をするよう心がけました。また私の子供たちも、父の回復に一役買ってくれました。まだ状況がわからない彼らは、朝起きるとおじいちゃんのベッドに行き、「じいちゃん、今日死ぬん?」と聞くのです。おじいちゃんは、「いや、今日は死なんな」と返します。そんな家族みんなが笑える無邪気さを彼らは発してくれました。
それでも自分たちがやっていることが果たして正しいのだろうか・・・、発熱が続けば病院に行ったほうがいいんじゃないか・・、心が揺れます。へこんだりもします。そんなとき心の支えになってくれるのが、仲間です。一緒に闘病してくれる仲間です。指導してくれる先生、患者仲間、友達・・・誰でもいいと思います・・・いわば同志とコンタクトをとることで、へこみをリカバリーできます。そういうお仲間を持つことはとても大事だと思います。
私たちがやってきたことが、すべての方の正解になるとは思いませんが、なにか皆様の参考になれば嬉しく思います。
ありがとうございました。
1. 村田悦代さん(乳ガン)
2006年 乳ガン発症
演題
『病治しは心治し』
こんにちは。
今日はお忙しいところ講演会にお越しいただき、ありがとうございます。
私は乳ガンでした。2005年の9月頃です。自分でしこりを見つけました。ガン検診は2年に1回のペースで受けていました。最初は子宮ガン検診を、そしてマンモグラフィーが導入されてからは、乳ガン検診も続けてきました。しかし、しこりに気づいてもすぐに病院に行くことはしなかったのです。というのは、私には20年以上同居してきた姑がいました。昼夜問わず一日中家の中で一緒に過ごしてきた姑です。その姑が、ちょうど時を同じくして、肺ガンになったのです。とりあえず私は、自分の乳房の小豆ほどのしこりを封印して、嫁の仕事に徹することに決めました。
義母はがんセンターで診療を受けましたが、ガンが全身に転移しているW期で、弱い抗ガン剤しか使えない状態でした。私にとっても初めての身内のガンでしたので、何もわかりません。治療は弱い抗ガン剤のせいか、副作用もなく、つらい様子は見られませんでした。義母は「もっと強い薬や新しいよく効く薬をやってくれませんか」と主治医にお願いするほどでした。私もガン治療とはそういうものだろうと思っていました。
義母の病状はだんだん悪くなり、放射線を当てたりもしました。そのうち抗ガン剤のイレッサの作用か、口内炎がひどくなり、ごはんが食べれなくなってきました。そして手足がいうことを利かなくなってきたのです。主治医は「イレッサは時々悪さをするんです。脳に入りましたね」と事も無げに説明し、もはや治療の余地はないといったふうでした。抗ガン剤の怖さを目の当たりにした瞬間でした。私は万一に備え、酸素吸入や人工呼吸のトレーニングも受けましたが、その年の11月に義母を看取ることになりました。
さて次は私の番です。ようやく落ち着いた2006年6月、封印を解いて自分の乳房の検査を受けに病院を訪ねました。細胞診検査のため、3cmほど切って細胞を採り出しました。1ヶ月後、検査結果を聞きに行くと、「村田さん、初期ですがガンです」と主治医に告げられました。CT画像を見ると、左胸は満天の星が光り輝くようになっています。乳ガンのステージT、左乳房を全部と腋など周囲も切除、という診断です。私はまだ若いつもりでしたので、それなら早く手術をしたほうがいいと、2週間後の予約を入れ、付き添ってくれた夫と帰宅しました。
まさか自分が・・・と泣きながら入院準備をしているところに、母の知人が訪ねてきました。「村田さん、ガンは治るらしいよ」どこからか私のことを聞きつけて、ある患者会の講演会の内容を話してくれました。手術や抗ガン剤の注意点や、日常生活とガンとの関係などです。生活習慣を変える自然療法でガンが治る可能性がある。手術をされた方には、申し訳ないのですが、予約を入れたものの、できれば手術したくないという気持ちが私には少なからずありました。というのも、細胞診検査のためほんの少し切っただけで乳房が変形してしまったのです。鏡に映してショックを受けました。「これ全部無くなるんだ・・・」 乳房を失って一生過ごすことが避けられるなら、自然療法をやってみよう!
実際に自然療法で治った人がいることで勇気を得た私は、乳房を切らずに治すことに素直に挑戦したくなりました。早速、主人と相談して手術をキャンセルしました。今後の関わりのことも考慮して、主治医には「1年だけ時間をください。1年間自然療法をやってダメだったら、また手術を検討します」とお願いしました。ただ、ガンの状態は確認したいので、4ヶ月に1度のペースでCT検査は受けることにしました。幸い理解のあるお医者さんで、民間療法には懐疑的でしたが、了承してくださいました。
こうなったらもう退路を断つ思いで臨むしかありません。主人と共にインターネットや本で勉強し、私の乳ガンは「血液の汚れ」と「冷え」を改善することが回復の鍵になると考え、ある冷え取りの本を参考にして実践することにしました。たまたまその方法を指導するショップが近所にあったのですぐに伺い、半身浴や食事の摂り方などを教えてもらいました。私の場合は食べ過ぎを指摘されました。「どうして私は食べ過ぎているのだろう?」と、自分なりに原因を手繰り寄せてみます。
ストレスがあったのは確かです。長年、姑とずっと一緒の生活。「いい嫁」と言われ喜んでいました。姑も、我が娘のように接してくれました。茶道の師範をしていた姑は、それはこと細かに家の中の事を取り仕切っていました。私は姑を尊敬し、姑の気に入られるように、姑の指示を受けなくとも家事をこなせるようにと努めました。そして自分が上手くできないと、なんてバカなんだ、なんでこんなことができないんだ、と自己嫌悪に陥る。そんな日々を何十年も続けたのです。
姑は孫に対しても、母親である私以上に至れり尽くせりでした。私が外出するときは、いつも面倒を見てくれたので、かえって私は行き先でゆっくりすることができず、用事を済ませたら直ちに帰宅する習慣がついていました。ですから、子供が就学してPTAの役員をやることになったとき、母親同士の付き合いがなかった私には友達がいませんでした。役員の仕事で悩んでも相談する人がいません。姑はPTAの役員になることには反対でしたので、内緒にしておきました。家でも外でも、気持や悩みを打ち明けられず、賢い嫁、可愛い嫁、立派な母であろうとした私は、少しのミスや、できなかったことで自分を責め、無能さを嘆きました。そして、家族が寝静まった頃、ジャンクなお菓子を食べ、酸化した料理用のワインを飲んで自己嫌悪の渦から逃れ眠りに就くのです。
冷え取りショップに週1回通うとともに、足湯、半身浴、靴下重ね履き、朝の人参ジュース、養生食をコツコツ続けました。入会した患者会の会報には、やはり自然療法をしている方々の記事が掲載されています。自分と同じような取り組みをしている先輩がたくさんいらっしゃる・・・私は会報を教科書にして実践しました。さらに鍼、温灸、リンパマッサージなども試しました。
その年の10月に、入会した患者会が主催する大きな集会が東京でありました。一人で東京に出かける機会などなかった一主婦でしたが、思いきって参加することにしました。当日の盛況ぶりや、本などで著名な先生にお会いできて興奮気味の私は、この時“スイッチが入った”のです。“治るスイッチ”です!「治るんだ! 治るんだ!」 それから自然療法が楽しくなりました。
4ヶ月後、約束していたCT検査をしました。主治医が画像を見て「村田さん、半分になってる」 驚きながら私に尋ねます。「何をやってるの?」 私は自分が実践していることを話しましたが、主治医は怪訝な顔をしています。1年と期限を切って挑んだ自然療法。私はこのまま続ければいいんだと手応えを感じ、さらに日々の養生に励みました。半身浴やビワ温灸、ウォーキングなど一日のスケジュールを作っていると、今まで自分のための時間を持つことがなかったなぁ、と気付きました。心にゆとりができたせいか、どんなことにも感謝する気持ちも芽生え、体が何を感じているかもわかるようになってきました。
患者会の冊子には、ガン治しには「インパクトのある変化」が必要だと書いてありました。私の場合は、「自分は誰に頼らなくとも何でも自分ひとりできる賢い人間だ」という意識を変えることだと思いました。そこで家族に対し、「本当の私は弱い人間です。みんなの助けが必要です。これからはひとりで抱え込まず、何でも相談します」と宣言したのです。主人をはじめ家族のサポートは、本当にありがたかったです。
そうして丸一年が経ち、検査を受けに行きました。「村田さん、この画像見たらガンがあったなんてわからないよ」 主治医も脱帽して自然退縮を認めてくれました。私は嬉しくてたまりませんでした。病気治しは心治しですね。自分にできないことはないと、自分を追い込み、できないと自分を嫌悪していた・・・そんな心を治すことで、私のガンは治ったのだと思います。
ありがとうございました。
2. 伊藤勇さん(前立腺ガン・肝臓転移・骨転移)
2006年 前立腺ガン発症・肝臓転移・骨転移
演題
『ガンを明るく生きる』
今年で80歳になるおじいですが、しばらくお付き合いください。
前立腺ガンとわかった時には、肝臓や骨に転移していて、医者からはあと3ヶ月から半年の命だと告げられました。女房を60歳で亡くしていたこともあり、先に戒名を作りました。お手元の資料にコピーがありますね。それです。でも戒名を作ったおかげで、なんか生き方が変わりました。3ヶ月で死んで、生まれ変わった感じ。それから15年経ちました。お医者さんが云う「告知」というのは、あくまで「予想」なんですよ。「予想=よそう」を反対から読んでみてください。「うそよ」でしょ。だいたいこんなもん。(笑)
でも告知を受けたらショックですよ。日本では30万人がガンで死んでいる。有名人が亡くなったというニュースでも死因はガンが多い。私も3ヶ月と医者から云われて、経営していた会社の整理をしなきゃならんと思ったんです。経営者としての責任がありますから、事業をどうするのか決断しなければなりません。結局、第三者に売却したのです。そうしたら、一気に気が楽になりまして。いつも仕事のことで頭を悩ませていましたから、気持がスーッとしました。オーバーワークだったんでしょうな。
ガンはね、「心の健康」「体の健康」「経済の健康」の3つの要素が絡んでくると思うんですね。なかでも心が半分くらい占める。昨日、統合医療の先生とお会いしたんですが、笑いとイメージ。お配りした資料ありますね。
よくなる よくなる
きっと よくなる
ずんずん よくなる
すっかり よくなる
(腹式呼吸しながら イメージしながら唱えてね)
私はこれをベッドの近くのよく目につくところに貼っております。そして最後に「わっはっは! わっはっは! わっはっは!」と笑います。みなさん、一緒にやってみましょう。(笑)(笑)(笑) それから、この紙の上のほうに、私は「ガンちゃん、おとなしくしといてんかっ!」と書いております。一枚ずつ拡大コピーしてお渡ししていますから、みなさん是非やってみてください。笑いは効果抜群ですよ。
体の健康といえば、食事ですね。私は、海藻、ニンジン、ホウレン草、小松菜、カボチャをよく食べます。一人暮らしですから、カボチャは一個買うと何食分にもなります。そしてすった生姜を何にでも入れてます。ガン患者向けの食事の本なども出ていますが、本に書いてあることそのままでなくてもいいと思います。食事はその人なり、自分に合った食事を見つけることです。玄米でも、小豆をいれるのがいい人もいれば、大豆がいい人、粟がいい人、それぞれです。自分のお腹と相談して決めればいい。玄米はいいですよ。でも、美味しく食べることが大切です。病気だからしょうがなく、苦行のようにいやいや食べるなら止めたほうがいい、相談を受けたら私はそう言いますよ。患者本人だけでなく、家族みんなで食べたほうがいいから、家族みんなが美味しいと思うように玄米を炊く工夫が要ります。好きにならなきゃ、体の足しになりません。
経済の健康は、意外に忘れられていることがあります。借金して治療費払うとか、高額な治療を受けたり、健康食品を購入するだとか、無理をして経済的に余裕がないのはいけないと思いますね。気持ちに余裕がないでしょ。ガン治療といっても、自分の経済力に見合ったものをすればいいんですよ。借金して高額な放射線治療を受けたが、思ったほどの効果がなかった。でも借金は残っているから、毎月15万円返済しなければならない。そういう方も実際いるんですよ。そりゃ、すごいストレスになっちゃいます。そんな精神状態では、病気は良くならない。かえってストレスで悪くなっちゃいますよ。
ガンになる人は、真面目な人が多いんですよ。細やかで、責任感が強く、我慢強い。自分の体力を犠牲にしても仕事に取り組む。早いとこ治して、また復帰しようとする。でもガンはね、風邪とはちがいます。長く付き合っていかなければならない持病です。おとなしくさえしてくれていたらいい。だって、ガンといっても体の一部ですからね。余所から飛んできてなるわけじゃないでしょ〜。だから、そう敵視してもいかんの。
私の場合は、すでに肝臓や骨に転移していたから手術できない、痛みがでてきたらモルヒネ打ちなさい、と言われた。当初入院する予定だったけど、がんセンターは「治療する人は入院させるが、治療の見込みがない人を入院させるわけにはいかない」と最終検査の結果、入院予約を取り消した。私は2ヶ月くらいで退院して職場復帰するつもりだったので、主治医から「伊藤さん、入院しなくていいです」と言われたときは、私の病状はそう悪くないんだと思い「先生、ありがとう」と言ったの。そしたら主治医は、「伊藤さん、勘違いしてる。ガンが進行していて治療のしようがないから入院できないのです」 エレベーターでてっぺんからスットーンと落とされたみたいでしたわ。
治療できないと言われてショックでしたが、まず冷静になとうと思いました。入院しなくていいなら会社をどうにかせんといかん。従業員もいますからね。これは大変な責任です。でもって、整理することにしたんです。心のストレス、重荷、悩み事・・・解決できないことはありませんよ。そういうものは減らしたほうがいいですね。
大切なのは、自分を信じること、自分の病気は自分で治そうという意識、そして生きるぞという強い意志。薬で病気は治りません。薬は万能じゃないですよ。私は西洋医学を否定しませんが、西洋医学は補助療法だと思っています。自分の治癒力や免疫力こそが治癒の主体です。私が心がけているのは、快食・快便・快眠と適度な運動。これはガン患者であろうと、健康な人であろうと同じです。それと55年間、日記をつけてます。
自分なりのライフスタイルをつくること、人任せにしないこと。そんなふうにして今の私があります。
ご清聴ありがとうございました。